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フィクションは、歴史を捏造することか?

俳優が揃った。つまり、書き始めることができるわけである。



自り伝完結編は、安藤昌益の晩年を描く。

昌益は、八戸に住み、秋田の二井田村という農村に移住し、その村で死ぬ。なぜ亡くなったのか、どうやら病になったらしい。どのような病気なのか、わかっていない。が、確かに二井田村で亡くなった。

温泉寺に墓もある。過去帳にも記載されている。戒名が三つもある。なぜ三つもあるのか。その理由は分からない。

明らかなのは、八戸で、町医者をやっていた。最後の地は、秋田二井田村。

昌益は、都会を捨て、村に生きよと主張した。

京という都会に住み、東北の城下町に移り、最後は、村に入る。

文字通りそれを実行した。



自り伝完結編の舞台は、八戸の新井田村である。まったくの作り話である。

私は、歴史を捏造するのである。

以前、発掘物を捏造していた考古学者のことを知ったが、では、私もそれと同じなのであろうか。

違うとしたらどこが違うのか。

受け手の違いである。

たとえば遺跡を発掘して、例えばある土器のかけらが出たとしよう。その時代にこのような土器があったとは!と驚きの発見で、歴史がひっくり返った。ところがそれは、捏造であった。

たとえば、ブレヒトの「ガリレオの生涯」という戯曲はどうであろうか。シェイクスピアの「マクベス」「アントニーとクレオパトラ」でもいい。でたらめがたくさんある。これも捏造である。

土器の捏造は、歴史にはならない。動機がはっきりしている。個人の名誉欲である。

戯曲の捏造は、歴史を解釈したその時代の遺跡になる。捏造が歴史になるわけである。

受け手が前者では捏造を許せないものであり、後者は、捏造を解釈するのである。そしてその解釈が、それを行った時代の歴史でもあるのである。



さあ、今日から書き始めよう!

いや、今日から捏造しよう!

言ってみれば、そういうことなのである。
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